手漉き和紙の
伝統を守る

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手漉き和紙とは

手漉き和紙の製造

紙の原料を人の手作業により1枚、1枚、漉いたものです。「流し漉き」と呼ばれる技法で、原料と水が混ざった液を、漉桁(すきけた)とそれに挟まれた漉簀(すきす)で汲み上げ、前後左右に揺する動きを、目標とする紙の厚さになるまで繰り返します。紙を漉く工程が人間の手によってなされたものを手漉き和紙と言います。

機械漉きは一方方向に一度で漉いていくので、繊維は流れる方向に向き、紙の層が1層となるのに対し、手漉きは、簀桁(すけた)を揺らしながら、1回、2回、3回と漉いていくので、繊維が複雑にからみ合い、紙の層ができます。ゆえに奥行きと広がりのある、味わい深い「線」の表情が生まれます。

手漉き和紙には人間の思考、すなわち想いが宿っています。原料を煮る時間、紙を漉くときの動き、乾燥のときの刷毛の動きなど、一つ一つの作業が人間の瞬間の判断により成り立っており、長い時間と作り手の想いが1枚の手漉き和紙となっています。

日本産の手漉きで、淡墨に適している紙。
それが多羅富來和紙の作りたい紙です。

工房がある新宮の様子
手漉き和紙のにじみを活かした作品「手」

大西作:「手」

日本一の紙の町で

愛媛県東部に位置する、四国中央市。
パルプ・紙・紙加工品の製造品出荷額が毎年全国首位の「紙の町」です。
そして、四国中央市が全国有数にまで栄えた大きな基が手漉き和紙であったことです。
手漉き和紙を製造していたからこそ、今の機械抄きの製紙業が発展しました。紙の知識、技術が紙漉きによって培われ、他の地域より迅速に機械抄きへの転換をはかることができました。

手漉き和紙の製造過程

伝統の継承

手漉きの様子

宝暦年間(1751年〜63年)の頃に手漉きで紙づくりが始まったとされ、その後地場産業として大きく発展しました。明治時代には約700軒あったとされる手漉き和紙工房は、機械化や高齢化により廃業が進みました。
現在は、手漉き和紙製造を行っている事業所は2ヶ所のみとなっています。産業の発達で機械化が進むからこそ、当地の繁栄の礎となった手漉きも大事に受け継がれているという誇りを失いたくありません。

多羅富來和紙は、書道用紙をメインに漉いています。あくまで手漉きにこだわります。手漉きにこだわることで、構想から完成まで、考えて、考えて、考え抜かれた書作品の想いを受け止める紙となります。

多羅富來和紙の多羅は、多羅葉(タラヨウ)という葉から由来しています。多羅葉は、葉っぱの裏側を尖ったもので引っ掻くと、黒くその痕跡が永く残るため、古来の人々はそれを手紙として利用しました。
多羅葉と書道用紙の共通点は、文字を手書きで書き残せるところにあります。多羅富來和紙は、手紙のように書作品が身近な日常の中に存在し続けるようにと多羅葉に想いを託し、また和紙を使った方や受け取った方にも富が来ますようにと願いを込めて1枚1枚、紙を漉いています。

工房の様子

事業概要

事業所名 多羅富來和紙
住所 〒799-0423
愛媛県四国中央市具定町326-6
工房 〒799-0301
愛媛県四国中央市新宮町馬立1517
事業内容 手漉き和紙の製造
手漉き和紙体験の実施
創業 2022年4月1日
代表者 大西満王

<代表者生い立ち>

愛媛県四国中央市に出生。
子供の頃から中国の歴史に興味があり、書道の歴史を知ったことで中学一年の時に書道教室に通い始める。

高校でも書道を続け、「書道パフォーマンス」にも出場。書道ができるのも紙産業が地元にあってこそと、紙の製造に興味を持ち始める。大学では基礎から最新技術まで紙のあらゆることを学んだ。その中で、地元四国中央市の手漉き和紙産業が衰退危機にあることを知る。

なんとか産業を残していきたいという思いから、製紙会社への就職活動を変更し、手漉き和紙職人への弟子入りを目指す。しかし、「きつい仕事だから生業にする必要はない」と断られる中で、後継者の少ない手漉き和紙がこの地域から途絶えることを危惧し、手漉き和紙製造業として自ら創業した。
現在25歳。(2024年7月)